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筑波大学教授  岩崎美紀子 氏


2002年2月28日 第154回国会 衆議院憲法調査会地方自治に関する調査小委員会議録抜粋


会議録抜粋

○岩崎参考人

 筑波大学の岩崎でございます。座ったままで失礼いたします。

 本日は、お呼びいただき、どうもありがとうございます。地方自治に関する調査小委員会ということで、地方自治についてということなのですが、とりわけ分権と連邦制についての話をということだと理解しておりますので、そのような内容で話を進めさせていただきたいと思います。

 お手元に、レジュメといいましょうか、三枚で、最初のところにきょうの話させていただく概要を列挙したものがございますので、そちらに沿って話をしていきたいと思います。

 まず、「地方分権改革」ということでございますけれども、地方分権というのは、今や世界的な潮流となっております。日本だけのことではございません。地方分権を推進する力というのは、これは世界的に幾つかいろいろな動きがあるのですが、それを同じような力のところにグループ分けをしますと、ここに書いてございます五つに分けることができます。

 まず、民主化の動きです。民主化を求める動きが地方分権を求めるということでございます。これは、よく発展途上国等で、権力がすごく遠いところで、権威主義体制など、一部に集中しているのを自分のところに取り戻すというところで、古くは地方自治は民主主義の学校と言われたこともありますが、民主主義、民主化と地方分権は密接に結びついているということになります。

 二番目は、文化的アイデンティティーです。これは、私はカナダを専門にしているのですが、特にケベックですとか、それからイギリスですとスコットランド、それからスペインのカタロニアですとかバスクとか、そういうところで文化的なアイデンティティー、自分たちの民族、言語、宗教等、そういう自分たちの民族集団、文化集団が自分たちで自治を求めたいというときに分権になるんですが、ここで重要なのは、自治を求めるときに、ただ自治をというのではなくて、ベースとなる領域を持っているということが極めて重要になります。

 つまり、分権というのは、機能的な分権もあるのですけれども、地方分権という限りは、その地方地方、一定の領域を持った上で、それを自分たちの土地として、そして領域として、そこでの自治を求めるというふうになりますので、そういうふうな文化的アイデンティティーが地方分権を求めていく。

 これは、余り行き過ぎますと国家にとっては統合の危機ということになりますので、バルカンなどをごらんになっていただくとわかるのですけれども、余りこれが行き過ぎるとかえって分断をしてしまうということになっていきまして、必ずしもポジティブなイメージではないということもございます。どちらの立場に立つかですけれども、そういうことでございます。

 それから、近代化の終えんというのがございます。これは、キャッチアップで、挙国一致で、中央政府に権力を集中して効率的に資源を配分していこうという近代化が進むわけですけれども、それがある程度達成されますと、そこの段階で新たに自分たちの近くに権力を置いて、そこで決めていきたいというふうな動きが出てくるということになります。恐らく、日本はこの近代化の終えんに近いところがあるのかなという気がしますが、そういうことです。

 それから、行財政改革というのがございます。これは特にイギリス等々で見られるんですけれども、中央政府が、自分が肥大しているのをスリムになりたいというところで、いろいろな仕事をなるべく民間と地方にゆだねるということになりますので、これも日本の現在の動きには関係があるというふうな気がいたします。

 それから、五つ目はグローバリゼーションです。これは若干矛盾して聞こえるかもしれないのですけれども、国家を超えてのいろいろな国際的な協力ですとか、グローバルスタンダードも含めて、進んでいくにつれて、より身近なところに対しての人々の意識が高まるというのがございまして、グローバリゼーションが進めば、逆に、近いところに対しての意識がちょうど相殺するように高まっていくというので、グローバリゼーションも意外に地方分権の推進力ということになります。

 それで、このように大きく五つに分けて地方分権を推進する力が世界あちこちであるわけです。その推進力はこのようにさまざまなのですが、分権化の潮流といいましょうか、方向としては、ある一定の方向がうかがえます。

 一つは、官治分権から自治分権にということと同じなんですけれども、権限委譲から権限移譲に。ここのイジョウのイの字が、委ねる場合と移す場合でかなり異なるわけであります。どちらを使うかで、まだ官治分権的な要素が残っているか、つまり、委ねる場合、委ねるけれども何かあったらまた引き戻すということなので、まだ根っこは委ねる側にあるというふうになります。移す方は、移してしまいますので、移された方が極めて自由度が高いということになりますので、同じ権限イジョウにも違いがあるわけであります。

 日本の地方分権改革を見ておりまして、やはり官治分権から自治分権へ、これは明治から始まって、今回の改革も含めてなんですけれども、ディコンセントレーションという官治分権から自治分権の方に着実に動いているということが言えると思います。

 前回の改革、前回のと申しますのは地方分権推進委員会がやられた改革と理解しておりますが、この前回の改革には三つの柱というものが立つのではないかと思っております。
 一つは、機関委任事務制度の廃止であります。この機関委任事務制度というのが、まさに官治分権といいましょうか、権限委譲の方でありまして、委任という言葉が出ますように、選挙で選ばれる首長の方に国の行政官庁が事務を委任してしまう、それで下級機関のように扱うというふうなことは、もう官治分権の最も顕著な型でありましたが、これが廃止されたということであります。

 それから、二番目の柱としては、国の関与が縮減をされた。法定受託事務と自治事務に分かれましたので、それぞれに関与の仕方がルール化をされ、そしてそれが法定主義になったということで、いわゆる行政ラインでぎしぎしと締め上げてきたのが、もう少し透明性が高まったということになります。

 三番目の柱として、これらを実効性のあるものにするためには、国地方係争処理委員会というのがなければ、何か起こったときに判断ができないということで、この国地方係争処理委員会をつくったというのが三つ目の柱だと思います。

 では、これですべて終わったのかと申しますと、そうではなくて、やはり残された課題があるわけで、私は、ここにもやはり三つの課題というふうに大きく分けることができるのではないかという気がいたします。

 まず一つ目の課題ですけれども、地方自治というよりは、地方分権というふうに語るときに、国と地方という二つのレベルの政府の関係をどうするかというふうに考えていくと、先ほどの機関委任事務というのは国の下請として地方があったということになりますが、この機関委任事務制度が廃止されたことによって、行政面での下請関係がなくなった。そういう意味で対等、対等というのは、イコールではなくてコーディネートというふうに英語では言うのだと思いますが、そういうふうに対等になったということだと思います。

 しかしながら、同じように国と地方の関係の中で残されたものとしては、行政面ではなくて、税財政面という裏づけのところ、まさに行政を行う一番基本のところがまだ残っておるわけでありまして、したがって、国と地方の関係を見ていくとき、行政面では前回ある程度の達成を見ましたけれども、税財政面は手つかずで残っているというところが残された課題の一番目だと思います。

 二番目はどこかといいますと、今度は、国と地方ではなくて、地方を見ていくわけでありますけれども、地方を見たときに、では、今のままの地方制度でやっていけるのかということになります。

 明治以来、市町村は合併を繰り返して少し数は減りましたけれども、それでも三千幾つあるというふうにおっしゃられますが、府県は明治以来ほとんど同じ領域でやってきておりますので、このように人の動きが非常に大きな範囲で動くようになってくるときに、そのままの制度でいいのかということになります。これは、市町村なり都道府県の領域、狭過ぎるかということなんですが、その領域の問題と、それからもう一つは、市町村と都道府県という二つのレベル、二層制をこのまま維持するのかということであります。

 例えば、都市はもう自立をして一層制にしていくということも一つの手でありますし、そうではなくて常に二層制でいくのかということも、これはもう大きなデザインをしなければいけないということで、地方制度の大きなデザインというのが残された課題として二つ目に挙げられると思います。

 三つ目は、これは自治体サイドの問題でありますけれども、自治を担うだけの実力があるのかどうかということで、能力をつけるということであります。

 これは何も規模を拡大するだけではなくて、説明責任ですとか、最後に申し上げようと思っていることにもつながるのですが、官官分権と言われる国と地方の権限の分権だけではなくて、市民社会への分権ということで、そこに市民のいろいろなリソースを一緒に活用できるような、いわゆる官が公を独占する状態ではなくて、民も公に参加をできる、そういうようなことが、実はローカルレベルというか、国よりも地方レベルで一番実現しやすいのではないかということも含めて、自治体が、今までのように国の方ばかりを見ていくのではなくて、みずからよって立つ領域の社会といいましょうか、地域社会を見ることができるかというのも含めて、もちろん法務能力ですとか条例とかございますので、そのような組織としての能力及び市民社会との双方向のチャネルという意味での能力も含めて、そういう自治体のあり方というのが三つ目の課題としてあるのではないかという気がいたします。

 自治体の話になりましたので、二番目の「自治体の規模と能力」というところで、これはきょうの分権と連邦制というのから少し離れるのですが、どうしても触れておかなければと思いまして、この項目を立てました。

 まず、規模をめぐる価値基準ということなのですが、自治体は、基礎自治体と広域自治体に分けることができまして、基礎自治体というのは市町村で、広域自治体は都道府県というふうに御理解をいただくといいと思うのです、国によって呼び方は違うんですけれども。基礎自治体のあり方をまず一番近いところから考えてみたいということでありまして、自治体の存在根拠というのは、私は二つあると思うわけであります。

 一つは、近いところに参加できる、自分たちが自分たちの地域社会を経営する。そういう、経営なりいろいろなあり方なりに参加ができるということで、政治参加ということに大きな意味があると思います。地方組織があったとしても、それが単に国の機関の出先であるとすると、そこには選挙というのはございませんので、双方向のチャネルではございません。一方的に国の地方機関から作用が及ぶわけで、人々が参加というふうな双方向のチャネルがないわけであります。これが自治体と出先機関の大きな違いになります。

 そのような参加ができるかどうかというのが、自治体かそれ以外の機関かというふうに分かれるところでございますけれども、政治参加ができるというのが、まさに自治体が存在する意味の一つなんであります。

 そうなりますと、参加の有効性を高めるには、やはりサイズとしてはスモール・イズ・ビューティフルということになってきます。小さい方がより参加の実効性が上がるわけでありますので、小さい方がいいというふうになっていくわけであります。

 しかしながら、自治体に託された役割というのはもう一つありまして、それは、公共サービスの供給であります。公共サービスと申し上げてもいろいろあるわけでございますけれども、特に基礎自治体は対人サービス、一番人に近い政府でございますので、人にサービスを提供する、供給をする、そういうのが存在の根拠になります。そうすると、ここでは規模の経済というのが働くわけで、スケールメリットがやはり出てくるわけであります。

 そうすると、スモール・イズ・ビューティフルというふうに、小さい方がいろいろ参加の効果が上がるというのと、あと規模の経済、大きいことの方が経営としては成り立ちやすいというふうな、この二つの相反する価値基準といいましょうか、役割がこれまでずっと葛藤してきたということになります。しかしながら、このどちらかをとらなくてはいけないのではなくて、まさに地方制度の組みようによっては、両方とることができるということが言えると思います。

 そこで、私は、海外のいろいろな基礎自治体のあり方を調べてみましたら、基礎自治体の規模が極めて小さい、小さいからたくさんあるということなんですが、そういうのと、比較的大きいというのがあります。それから、地方制度それ自体が、いろいろな制度を認め、多様性があるかということと、それから二層制、かっちり決めてしまって比較的画一的かという二つの軸になるんですけれども、それぞれに四つの象限ができるわけで、それを見ますと、多様でいろいろな制度があって、かつ自治体が非常に小さくてたくさんあるというのがアメリカなんですね。アメリカも三万以上の自治体がありますから。州によっていろいろ自治体のあり方は違うのですけれども、数からいったらすごく多いわけですね。自治体がカバーしていない地域もございますので、本当に地方制度は多様で数は多い。

 アメリカの考え方としては、公共サービスは提供されればいいのであって、自治体が提供しようがどこが提供しようが別に構わない。だから、ディストリクトですとか民間の公益の機関ですか、そういうのが提供するわけで、何も選挙でもっている自治体がすべて提供するわけではございません。こういうのをアラカルト型と私は呼んでおりますけれども、そのアラカルトであります。

 自治体の数はすごく多いけれども、制度としては比較的画一的であるというのがフランスでありまして、これは三万六千のコミューンがございまして、革命時代からずっとこのまま三万六千なんです。しかしながら、制度としてはかっちりとコミューン、デパルトマン、レジオンというふうに非常にはっきりと全国的に同じ制度をひいているということになります。

 これも、日本はちょっと厳しいかなという気がするのは、フランスの基礎自治体はほとんど公共サービスの供給というふうな仕事を期待されておりません。実際に仕事をするのはデパルトマンという、昔は国の出先だったのですけれども、今は県ということなのですが、ナポレオンがプレフェを任命して、全国津々浦々同じようなサービスをということになってきます。そういうふうなフランス型と、日本のたくさん仕事をする市町村とはなかなかうまく結びつかないかなという気がします。

 それから、自治体の規模は大きいのですけれども、制度としては多様であるというのがイギリスでありまして、これもアラカルト型で、いろいろな供給主体が公共サービスを提供するということになります。

 ちなみに、イギリスは成文憲法はございませんので、地方自治の本旨などを決めたものが憲法としてはございません。したがって、議会主権なので、議会で制定法を決めていった。それが自治体のあり方を全部決めていくことになりますので、例えば、保守党では絶対に認められなかったであろうスコットランド等々の地域議会が労働党のブレアでは認められるというふうになっていきますので、政権交代で地方制度が極めて揺らぐ、変わるというところであります。その意味で、極めて中央集権的な地方制度と言えます。

 北欧型というのは、これは、福祉国家のための公共サービスを提供するために、規模が大きくなくてはそれだけの仕事ができないということで、規模が比較的大きな自治体として再編しました。制度としては、二層制ということで、ある意味で画一的といいましょうか、そういう制度であります。

 私は、日本は多分、この北欧型が一番土壌に合うのかなというふうな気がしておりますけれども、そのためには、基礎自治体の再編は避けて通れないということになっていきます。

 それで、その基礎自治体が再編されますと、どういう形で再編されるかはわからないのですが、再編された後にどうしても出てくるのが、では、広域自治体はこのままでいいのかということになります。基礎自治体の規模が大きくなるということは、広域自治体は都道府県ですけれども、そのままのサイズでいいのかということになって、必ずここで道州制あるいは連邦制等々が出てくると思います。

 私は今、基礎自治体から道州制なり連邦制を考えるアプローチをとりました。一番近い政府からというふうにとりましたけれども、国家制度から見て、基礎自治体ではなくて、まず、国に一番近い地方レベルをどうするかというふうな考え方から広域自治体を考えるというアプローチもないわけではございません。

 その道州制と連邦制なんですけれども、これは、私も並べて書いてしまいましたけれども、道州制、連邦制というふうによく並べるのですが、制度は本質的に違います。例えば君主制と共和制が違うように、議院内閣制と大統領制が違うように、連邦制と単一制では違います。一番大きな違いは何かといいますと、連邦制度をとる限り、憲法に、二つのレベルの政府、中央と地方になるのですが、二つのレベルの政府の間の立法権の分割が明記されなくては連邦制度とは言えません。

 世界に、つぶれたりいろいろ動いておりますので十五、六、七ぐらいでしょうか、連邦国家がございますけれども、連邦制というふうに言えるのは、これはまさに世界基準ですが、すべて憲法に立法権の分割が明記されているところであります。いかに分権的な国家であろうが、単一制度でも分権的な国家があるわけで、連邦制をとっていても集権的な国家があるわけでありますけれども、政治制度としての連邦制を見る限り、その立法権の分割を書いた憲法が必要であります。

 分割の仕方なのですが、その立法権、権限自体を分割できるのではなくて、立法する分野を分割しているわけでありまして、例えば防衛ですとか通貨ですとか外交ですとか、国家の存立にかかわるものは連邦議会が立法をするという書き方です。

 いろいろな書き方があるのですけれども、アメリカが世界で最初に連邦制度を国家制度とした国なのですが、その書き方は、いろいろな州、ステートが集まって国家政府をつくり上げていくわけで、なるべく国家の権限を限定したいということで、連邦の権限を列挙しておりまして、それ以外は州に属するというふうな書き方をします。それ以外は州に属するというようなことでも、立法権が分割されたことになります。

 私はカナダを専門にしておりますけれども、カナダは、連邦議会が立法できる分野と州議会が立法できる分野を双方列挙しておりまして、それ以外の列挙しない残余権限は連邦に属するというふうにしておりまして、いろいろなバリエーションがあるわけでありますけれども、それは、それぞれの国がどのような権限を連邦を構成する地域政府に任せるかどうかというところでありまして、この権限分割のデザインによって、たとえ連邦制をとっていても、極めて集権的な国も出てくるわけであります。

 例えばラテンアメリカ、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラ、メキシコというのは連邦制度です。しかし、分権的かと言われると、多分そうではないというふうに思われると思いますが、憲法を見ても、連邦議会の列挙権限のリストが非常に長くあって、それ以外は州にというふうに書いてございますので、れっきとした連邦憲法なんですけれども、それ以外は一体何があるのかというぐらい長いリストなわけですね。でも、それでも連邦制なんです。

 日本国憲法も、地方自治の本旨と書いてございますし、地方自治の章も第八章がございますけれども、立法権の分割ということについては書いてございませんので、もしも連邦制というふうなことを考えるのであれば、まさに憲法改正という、立法権をどのように分割するかというふうな、その立法分野のリストをつくらなければならないというふうな、大きなハードルがあるというふうに思います。

 道州制というのは、これは多分日本独特の言葉でありまして、単一制度の中での、恐らく広域の、都道府県に相当するリージョナルなガバメントの領域を広くする、四十七ではなくて、多分七つとか八つとか九つとか、そういう道州にして、そこに大きな権限を与えるということなのかなという気がしますが、でもそれは、立法権がどうかというところで、連邦制に行くかそうじゃないかというところが分かれるということになっていきます。

 それで、道州制への課題ということなんですが、では、例えば日本で道州制等々をお考えになる場合に、一番重要なのは領域をどうするかということであります。昔は、地方総監府とか地方行政連絡会とか、協議会でしたか、戦時中にございまして、九つに切ったりしておりますけれども、それを、地方分権と言いながら、国が上から線を引いて、こことここをまとめるというふうに言っていいものかどうか、そういう具体的なことも含めて、領域をどうするかという問題があると思います。

 それから、例えば、州になったときにそこのトップをどのような方法で選ぶかということで、官治であるか自治であるかというふうになってくると思います。

 第四次地方制度調査会が出した地方庁構想というのは、総理大臣が任命する方がその地方の長になるということで、これはかなり大きな反対を受けたというのは、官治分権を再度実現するということになってしまったので、官治というのはやはり今の状況だと考えにくい、自治分権だと思います。

 そうすると、例えば七つか八つに分けますと、そこの、知事と呼ぶんだったら知事かもしれませんが、かなり大きな権限を持つということになっていきますので、選び方等々も含めてそういう問題があると思います。端的に言えば、デザインをどうするかという問題が道州制にはあるということになります。

 それから、二層制、三層制と書いてございますけれども、現在の都道府県を例えば昔の郡のような感じで残してさらに大きな州をつくってしまうか、その中間に現在のを残しながらさらに上をつくるということが考えることはできると思います。

 例えば、先ほど申し上げましたフランスというのは、コミューンという三万六千があって、百近いデパルトマン、県があって、その上に二十のレジオンというのをつくりまして、三層構造をとっておりますので、既存の制度にはさわらないで上にレジオンをつくったということであります。最初は官治で、そのうちに自治になったということになりますので、参考にできないことはないと思います。

 連邦制への課題というのは、先ほど申し上げましたように、憲法改正が絶対に必要である、立法権を分割しなくてはいけない。かつ、世界でも、二院制をとっている国は一院制をとっている国に比べてうんと少ないのですけれども、連邦制の国家は必ず二院制をとります。連邦の上院がその連邦構成政府から選ばれる地域代表制を具現するわけでありますけれども、そのような上院を、選出方法も含めてどういうふうにデザインするかということがあります。

 それから、連邦制を考えるときに、ちょっと忘れられがちなんですけれども、連邦制の中での市町村というのは極めて弱い存在であります。州が強い分だけ市町村は極めて弱いです。

 例えば、アメリカは五十州なので五十通りの地方自治法があると思ってくださって結構だと思うんですが、市町村のあり方は各州が決めていくので、チャーターですとか憲章で自治できますけれども、州の締めつけはかなり厳しいということです。カナダもそうです。十州ありますけれども、十通りの地方自治法があって、市町村のあり方はそれぞれ違っているということになります。日本の市町村はかなりたくさんの仕事をしておりますけれども、連邦制の国家では、市町村よりも州がたくさん仕事をして、市町村はほんの身近なところのサービスしかやっていないということになります。

 時間が押してまいりましたので、少しまた早口になってしまいますが、連邦国家の現実を少しお話ししておきたいと思うのです。

 連邦制を選択する理由はさまざまでありまして、先ほどの文化的アイデンティティーという、例えば言語なり文化なり、違う人たちがそこにいるので、そこに自治を与えるかわりに国家としては統合するというふうなことも含めて、いろいろな理由がございます。自治と申すのは、権限の分割の仕方によってはさまざまでありまして、制度としては連邦制度と単一制度というのははっきり分かれるのですけれども、実態としての分権の度合い、自治度の度合いは、例えば連邦国家で極めて集権的なメキシコとかオーストラリアを見ますと、日本の方が、単一国家でありながら分権的であるというふうに言えるわけですので、制度を見るのか、実態を見るのかというところで、これはまさにここでどちらの方を目指されるのかということをお決めいただかないと、その後のシナリオは組めないということになっていくと思います。

 それから、「分権と政党」と書いてございますのは、たとえ連邦制をとっていても、中央と地方のレベルで、連邦と州のレベルで権限が分割されているにもかかわらず、それにまたがる政党組織があるとすると、それは立法権の分割というふうな構造ではなくて、立法者が政党のネットワークでつながっていきますので、その場合は分権には実態はなりません。メキシコのPRI、制度的革命党などがこれに入ると思います。制度は、メキシコは連邦制なんですけれども、実態は覇権型政党と言われるように、非常に大きなピラミッドのところで人が動きますので、構造としては分権にはならないということであります。分権を担保しようと思えば、極めて強い地域文化性か、あるいは構造としての政党が地域政党をベースにして組み上がっていくというふうに考えないと少し難しいかと思われます。

 それでは、日本はどのような地方分権を目指すかということなんですけれども、恐縮ですが、お手元の資料の一枚目の表をごらんになっていただきたいのです。

 分権には大きく四つのモデルがあるというふうに考えることができると思います。細々と書いておりますけれども、どこを見ていきたいかといいますと、この地方組織、この絵ではBに相当するんですが、Bに相当するこの組織が市民からのアクセスがあるかどうかというところです。つまり、そこの長が任命か選挙かということなんですが、長が選出をされるということは市民からのアクセスがあるわけで、そして選挙は定期制と競争制というのがベースになるとすると、市民が今度は違う人を選びたいとか、同じ人を選ぶとか、そういうふうな市民側からのアクセスがあるわけであります。市民側からのアクセスがなければ官治、任命だとアクセスがないわけですから官治分権、先ほどのディコンセントレーション、ここで言うと出先型ということになります。アクセスがあると自治分権になっていまして、ここだと連合型、連邦型、単一型というこの三つが自治分権になると思います。

 それから、もう一つ大きな基準なんですけれども、ここで言うBの組織なんですが、地方組織、地方団体の権限と存在の根拠がどこにあるかであります。存在と権限の根拠が憲法にある場合が連邦型でありまして、中央議会の法律による場合が単一型になってきます。

 ですから、日本は、憲法は存在と権限までも決めていませんので、法律にゆだねていまして、地方自治法が決めますので、そうすると、皆様方が地方自治法を変えると言えば、地方団体の意向にかかわらず変えられるわけです。どんなふうな影響が及ぼされるか及ぼされないか、一番影響が及ぶところは決定に参加できないで、中央議会で変えることができるということでありまして、そういう意味で、連邦型だと憲法を変えなくてはいけないので、おのずから地方団体、国民等とも参加をするということになっていくので、ここのところが違うと思います。日本はこの単一型に入っております。

 次のページなんですけれども、今のだと非常に大まか過ぎるので、もう少し分けたいと思ってつくったのがサブモデルということであります。

 そうすると、国が決めるとしても、実際に執行する地方側が、執行に当たってある程度の裁量を行使できるかどうか、現場に合わせてちょっと柔軟に変えることができるかどうか。それとも、きっちりと国が決めたことをやらなきゃいけないのかというところで、裁量がプラス、マイナスになってくる。ここで言うプラス、マイナスというのはそういうことなんですが、国が決めたことを地方が執行する場合に、裁量が持てるかどうか、柔軟性が持てるかどうか。持てない場合はマイナス、持てる場合はプラスというふうに書いてあります。

 それからもう一つは、国が決めるわけでありますが、みずからに関係あることを決められるときに、そこに影響力を行使できるかどうか。実際の立法者は国会でありますけれども、しかしながら、こういうふうな方向で立法をお願いしたいというふうな、一定のお願いというか影響力といいましょうか、そういうのが行使できるかどうかという、行使という言い方はちょっときついですけれども、それがプラス、できなければマイナスというふうに考えていきますと、四つの形に分けることができると思うんです。

 それで、日本が目指すのはどこかといいますと、憲法を変えないで十分だと思いますので、単一型の分権のメーンモデルでいいと思うんですが、しかし、現実に今日本は出先型に非常に近い単一型なんですね。国が言ったことをそのままやらなきゃいけないというふうになっていますので。そうすると、サブモデルとしては4型なわけであります。両方とも非常に弱いということになります。

 ですから、そこではなくて、サブモデルの1型、国が決めたことを現場で執行する場合に、現場のニーズに合わせて一定のフレキシビリティーが持てるというふうなところで裁量がプラスになる。それから、地方が行うことに関して、地方の現実を反映できるような立法になるようにする、影響力を行使できるという意味で、1型ということで、単一型の中の4型から1型に移るというのが最もなじむのではないかなという気がしています。

 ちなみに、EUですけれども、EUは、連合型の1型から、ECからEUになって、連邦型の方に移ってきていますので、逆方向に、言い方を変えれば集権化の動きの方に移ってきているわけでありまして、どちらの方に移るかというのは、権力が多元化しているか、一元化しているかというところでありまして、日本は多元化の方向に移っていかなければ分権とは言えないと思いますが、いろいろな型の統合の仕方があるということになります。

 それから、影響力の問題を考えていきますと、どうしても国の機関といいましょうか、第二院に地方の代表性をいかに高めるかを考えておく意味があるのかなという気がします。

 先ほど、連邦制は必ず二院制をとっておりまして、上院には地域代表制を、州の代表が送られているということを申し上げましたけれども、例えば日本も単一型の分権の中で、メーンモデルは単一型ですが、サブモデル1型に移るのであれば、第二院の代表性というのは必ず考えなくてはいけないというふうに思います。

 それから、最後は、官官分権ではなくて市民社会への分権ということを申し上げたいと思います。

 それで、まとめといいましょうか、私がもともと海外の政治を勉強していまして、日本に戻ってきて日本を見たときに、この国の地方分権というのは、どうして地方分権を地方ではなくて国が言うのかなというのはすごい気になっていたのですけれども、中央政治を地方政治から独立させるというと変ですけれども、中央と地方が余りにも絡み合ってしまって、相互依存というよりは相互浸透といいましょうか、もう織り込まれてしまっているんですね。そうすると、ドミノのような感じで、一つ倒れれば全部倒れるということになっていきます。これは、国としての基礎体力は余りにも弱いという気がします。

 そう考えていきますと、それぞれが自立をして、それぞれの立場から国民に向かって、相互協力ができるような意味で、相互浸透ではなくて相互依存の方に切りかえるというのが、この国がそうではないともたないかなという気がしております。すべてが絡み合ってしまうと、責任の所在等々、それから、今のリソースが少なくなっていく時代で、ちょっと厳しいのかなという気がします。こんな生意気なことを言いましてお許しいただきたいと思いますけれども、ずっとカナダにおりましたらそういうふうに思いました。

 ちょっと長くなりました。以上でございます。(拍手)


以上